サナフミのラーニングジャーナル

実践からの学びをまとめています

【茶道】空白を生む

流れるようなお点前の中で、おもむろに訪れる空白の間が好きだ。

稽古をし始めてしばらくは、お点前の順番を間違えないように次は何をするのか、考えながら身体を動かす。段々と身体が所作を覚えてくると考えなくとも、身体が勝手に動くような感覚となる。そうなってきた頃、所作は正しいが、どこかしっくりこないと感じる瞬間に遭遇することになる。

手はスムーズに動いていても、どこか違う。ゆっくり丁寧に動かせてみても、違う。この違和感はどこから来るのだろうかとしばらく、迷いながら稽古を続けた。その後、「空白」の存在に気づく。

茶碗をおいて、棗を置いて、帛紗を取って、と動作が続く中で、自分の身体が自然に止まる瞬間がある。「止める」のではなく「止まる」のだ。これは、文字の止め、はね、はらいのように意識的にするものではなく、自然な動作を目指した先に生まれる「空白」ではないかと思う。明確な止まる瞬間、動き始めるはない。そうでありながら、確実に「間」が存在していると感じられるのだ。

そもそも言語で表現できないものを無理やり表現しようとしているため、もどかしさが募るばかりである。まだ自分の中でもつかみ始めた感覚であるため、この感覚を大いに養っていきたい。

存在しているのだが、意識しなければ気づかない。「有る」のに「無い」。

人間の感覚を研ぎ澄ませて、AIでは簡単に到達できない世界を知覚できるようになりたい。

 

【茶道】静寂を味わう

静寂とは、無音で静かな様子ではなく、意識を遮るような音がない様子だと、私は考える。

茶室は、露地(庭)に囲まれており、外の音が聞こえにくい環境であることが多い。そうでなくとも、茶室の中で発する音は限られたものである。

すり足で歩く音、柄杓を置く音、お湯を茶碗に入れる音、茶筅で抹茶を点てる音。

茶室では、様々な音が存在しているが、お点前の流れの中であまりにも自然に発するため、意識の中に溶け込んた音であり、違和感がない。静かな空間の中で、ところどころ発せられる音だからこそ、空間に馴染んでいると感じる。仮に、無音が長時間続く環境であったら、緊張が生まれるのではないかと思う。

そういった静寂な空間を生み出すためには、何が必要なのか、と考えると、やはりお点前の稽古である。茶室の中で自分が行う所作が、自然に、滞りなく行われることによって、心地の良い音が生まれる。

例えば、茶碗を置く動作一つとっても、焦って置けば「ドン」という音が鳴る。柄杓の扱いが不安定であれば、水をこぼしてしまうこともある。自分の所作が自然体で行われているか、その判断基準の一つが「音」であると考える。

本日の稽古でも、音を意識してみたが、これが難しい。音を立てないように、と所作をゆっくりしようと意識したら、上手くいかない。それは、なぜか。

力んでしまうのだ。道具を持つ手や腕に力が入ったり、上半身を傾けるために腰に力が入ったりして、自分の意識が身体に集中してしまう。これでは、音を立てないことが目的となることで、お点前が不自然になってしまい、本末転倒である。

不要な音が立たないのは結果であって、目的ではない。あくまでも一連の中で、必要な場面で音が発せられ、気づいたらお茶を味わい、空間の心地よさを味わっていることが理想である。

日常生活でも、物を丁寧に扱って、心地の良い音を生み出していきたいものである。その日常の積み重ねが、人をもてなす下地を作っていくことになるだろう。

 

【茶道】他者に見られる

昨日、社中の初釜が行われた。社中とは、同じ師を持つ人の集まりである。

今年の初釜では、私がお手前をすることとなった。普段の稽古では、師と1対1のため、第三者にお手前を見られることはない。初釜は、茶を嗜むのが一番であるものの、客として座っている弟子の皆々は、やはり稽古をしている身として、私のお点前をじっと見ている。

亭主として、客をもてなすので、見られてナンボではあるものの、やはり緊張する。そんな自分を客観視した時、「こういった緊張はひさしぶりだ」と思う。

スマホ、リモートワークやオンライン英会話、いろんなものがネットで実現できるようになってから、身体動作のみで表現することが減ったとあらためて気づく。仕事において、オンライン参加なしで、対面のみのプレゼンテーションを行ったのは、いつが最後であろうか。

茶会において、オンライン参加はありえない。それだけでなく、道具も身体を通じて使うもののみである。マイクやBGMを流すスピーカーもない。全て手作業である。

そういった身体表現を他者に見られる、というのが良い。

同じお点前の動作を行うとしても、他者の視点が実際にあるとやはり自分の感覚が変わる。特に感覚が変化するのは、自己評価だ。「他者の視点をイメージ」して一人で行動するだけでは感じられない要素がある。

自分で他者の視点をイメージした場合、あくまで自分一人の自己評価のため、多角的に考えたとしても、自分自身へ十分なフィードバックに与えた上で、評価することができる。

しかし、実際に他者がいる場合、「素晴らしい、具体的には・・・」とコメントをもらっても、「本当にそうなのか」「言葉にしていないが、あの反応から思うに」と、どこまで他者の自分への評価を想像してしまう。なので、自己評価が定まりにくい。(特に、私の場合は)

自分自身のことを考えても、他者に何かしら評価するコメントを伝える時、考えたこと全てを言語化するのは不可能である。正確な自己評価をしようとしても、迷宮入り間違いなしだ。

とはいえ、他者に見られることで、自分の中にこれまでにない観点での問答がスタートする。
遠慮ばかりせず、チャンスがあったら人前に立つことも良いものである。

【マインド】人生の伏線回収をする

かつてお世話になった人の思いは、年月が経ってこそわかる

ここのところ、お世話になった先輩や恩師の話を聞く機会が多い。相手の武勇伝や昔話はほどほどに、共に過ごした思い出話を掘り下げるところが醍醐味である。

自分と相手が過ごした時間の記憶は、当然自分の頭の中にある。その記憶は、時間が経つほど、どんな出来事があったのか薄れていき、自分が変化することで出来事への認知も変わっている。

しかしながら、そもそも記憶していることは自分の周りのこと、自分が見聞きしたことであり、知らないところで何が起こっていたのか、他人がどう思い、考えていたのかは当然知らない。だからこそ、時間が経った今、お世話になった方に聞くのだ。当時、どんな思いで、どんなことをしていたのか。聞いてみると驚きと感動の連続である。

ある恩師は、当時とても厳しかった。音楽の練習の時、失敗すると「もう演奏しなくていい」時間に遅れると「帰れ」と言われる。子どもだった自分はとても怖い思いをしていた。しかしながら、なぜ厳しくしていたのか。恩師に尋ねると、そうしないと収集がつかないほど子どもたちの協調性がなかったからだ、と話してくれた。

当時、子どもの保護者はわが子が協調性がないとは全く理解しておらず、「うちの子はちゃんとしている」と考えていたらしい。だから、厳しいことを言うと親から文句を言われたそうだ。恩師は「おたくのお子さんはですね、」と言いたい気持ちをグッと抑え「すみません」と頭を下げて過ごしたという。それでも厳しさは変えず、自分が言わなければならない、と使命感を持って子どもと接していたのだ。

もう何十年前の話だが、今話を聞くことで、厳しさの背景を知ることができた。子どもにあえて厳しく接するのも優しさ、くらいにしか感じることができていなかった自分。恩師の見えない苦労は聞かなければわからない。そして、それは当時聞いたって教えてくれないし、意味がわからない。今だからこそ味わえることなのだ。

お世話になった人の話を聞かせてもらおう。人生の伏線回収ができる。
そして回収で終わってはならない。いただいたものを次世代へ恩送りするのだ。

【書籍】大人になってわかる国語の大切さ

活字を欲している。もっと本を読みたい。

最近、英語を学習する際、長文読解の問題に取り組むことが多い。そこで、英語の長文を読む習慣がついてきた頃、日本語の本を読むのも楽になっていることに気づいた。

言語は異なるが、文字を読み取り、意味を想起し、内容を理解する。

この思考プロセス自体は同じなのだ。インプットする文字が違うだけである。そう考えると、英語学習で行なっていることが、そのまま日本語学習(国語)に活かせるはずだ。英語も日本語も語学であり、必要な訓練は同じであろう。母国語か外国語かの違いは留意するものの、原則は通じている。

そう考えると、いかに自分が国語学習を雑にやってきたのかと、この歳になって猛反省している。英単語を覚えるように、日本語もわからない単語は調べるべきであり、構文という文章の型を理解する必要があるのだ。

速読とか、要点をつかむ読み方とか、いわゆる受験テクニックに走り、丁寧な読み、じっくり正確に読む行為を蔑ろにしていた。なんとなくわかったつもりでOKとしていたことに、あたらめて気づく。焦る必要はなかったのだ。早く読めないのであれば、ゆっくり読めばよかっただけだ。

まあ、学生時代のことなので、自分ができない、という事実を受け入れるのは難しかったかもしれない。頭ではわかっていても、実際は、学年が大きく下の簡単な参考書やドリルを買うことはできなかった。恥ずかしかったのだ。

そういう意味では、自分の実力を客観的に把握できることも学習能力の大切な要素かもしれない。自らがわからなければ、何も始まらない。そして、その状況を理解し、表現するのは言語である。「なんとなく」ではなく、何ができて、何ができないのか、具体的には何かと言葉にすることで思考が進む。

何をするにも、言葉ありきだ。今からでも遅くない。国語を、母国の言葉を学ぼう。

【マインド】もう微熱が下がることはないと思った

1週間以上、微熱が続き、体がだるかった。ずっとこのままなのかと思った。

先週発熱をしてから、薬を飲んだり、内科に行ったり、ひたすら寝たりして、多少回復したものの、完治したと言えない体調不良が続いた。

原因がわからないことは、想像以上に不安であった。

一度、医師に風邪です、と診断され、出された薬を飲んでみたものの、治らない。変わらず鼻づまりが続き、熱が下がらない。これ以上どうしたら良いのか、と悶々とした気持ちになっていた。最終的には、耳鼻科に行って、副鼻腔炎と診断された。今は薬が効いて、体調が戻ってきたところである。

ただ、今日に至るまで、不治の病ではないかとネットで病気について調べたり、自分が元気になったと思い込んでみたりしたが、何をやっても気分は晴れなかった。体調がイマイチな時は、根拠のない自信を持つことも難しい。自分を騙すパワーが出ない。

健康第一というが、何かしら病気になることはある。その時に原因がわからないことほど怖いものはないと感じた。微熱であっても、不安が大きくなると精神的な面で勝手に重症だと思い込みかねない。

病の元は心から。

【書籍】「動画で学ぶ」と「読書で学ぶ」の違い

「動画で学ぶ」と「読書で学ぶ」は何が違うのか

このところBIツールに関心を持つようになり、色々と調べている。自分の想像を超えてテクノロジーが進化していることを知ると同時に、社内で実行できることは限られている現実にも向き合っている。そんな中でも、Excelの進化はすごい。通常のExcelであってもBIツールと遜色ない機能が搭載されている。

仕事上でお付き合いのある人からBIツールの説明を聞いた中で、Excelでもできることがあると知り、その帰りに本屋へ立ち寄り入門書を購入した。PCの話なのに、今さら書籍を買って学ぶなんて効率が悪いと思ったりもしたが、書籍を読んだ結果、個人的には活字の情報が好きだと感じた。

動画と読書の違いは、学ぶ能動性、情報処理の自由度、再現性だと考える。

学ぶ能動性とは、どれだけ自分が主体的に学びを得る必要があるかである。動画は、ボタンを押せば、情報が自動的に発信され続ける。スライドや写真、映像を通じて、イメージしやすくわかりやすい。しかし、ぼーっと見ていても、動画は進み時間が経っている。見たことに満足して終わりかねない。

その一方で、読書は、自分で文字を読まない限り情報のインプットが進まない。ぼーっとして読めるほど簡単なものは、ほとんどない。書いてある文脈、言葉はどういう意味かと既知の知識をヒントに新しい概念や知識を獲得していくプロセスである。歯応えはあるが、身体に良い食べ物のようなものだ。

情報処理の自由度とは、どのくらいの量を、どんなペースでインプットするのかである。動画の場合は、コンテンツは決まっており、進むペースも発信者によって決まる。一方で、読書は、1ページずつでもよし、行ったり来たりして読み返しても良い、途中でやめても良い。動画でもできるが、読書の方が自由だ。自分の思考の流れを優先して、インプット方法を変えることができる。ただ、自由だからこそ、自分の型がないとなかなか先に進めない。

再現性とは、学んだことを自分の知識として、実生活で活用することだ。エンターテイメントはその場で楽しめば良いが、そうでない何か目的があってインプットする場合は、行動として知識を活用することになる。その際、動画のイメージをもとに理解して、行動に繋げることも良いが、自分の場合は、言語をもとに行動をイメージして、実行する方が向いている。なぜなら、その結果を再び言語として書き出し、客観的に振り返りができるからである。

好みによって違うと言えばそれまでだが、やはり文字が生まれてから数千年続いてきた書籍という媒体には豊富な学びが詰まっている。本を読もう。