サナフミのラーニングジャーナル

実践からの学びをまとめています

【書籍】「動画で学ぶ」と「読書で学ぶ」の違い

「動画で学ぶ」と「読書で学ぶ」は何が違うのか

このところBIツールに関心を持つようになり、色々と調べている。自分の想像を超えてテクノロジーが進化していることを知ると同時に、社内で実行できることは限られている現実にも向き合っている。そんな中でも、Excelの進化はすごい。通常のExcelであってもBIツールと遜色ない機能が搭載されている。

仕事上でお付き合いのある人からBIツールの説明を聞いた中で、Excelでもできることがあると知り、その帰りに本屋へ立ち寄り入門書を購入した。PCの話なのに、今さら書籍を買って学ぶなんて効率が悪いと思ったりもしたが、書籍を読んだ結果、個人的には活字の情報が好きだと感じた。

動画と読書の違いは、学ぶ能動性、情報処理の自由度、再現性だと考える。

学ぶ能動性とは、どれだけ自分が主体的に学びを得る必要があるかである。動画は、ボタンを押せば、情報が自動的に発信され続ける。スライドや写真、映像を通じて、イメージしやすくわかりやすい。しかし、ぼーっと見ていても、動画は進み時間が経っている。見たことに満足して終わりかねない。

その一方で、読書は、自分で文字を読まない限り情報のインプットが進まない。ぼーっとして読めるほど簡単なものは、ほとんどない。書いてある文脈、言葉はどういう意味かと既知の知識をヒントに新しい概念や知識を獲得していくプロセスである。歯応えはあるが、身体に良い食べ物のようなものだ。

情報処理の自由度とは、どのくらいの量を、どんなペースでインプットするのかである。動画の場合は、コンテンツは決まっており、進むペースも発信者によって決まる。一方で、読書は、1ページずつでもよし、行ったり来たりして読み返しても良い、途中でやめても良い。動画でもできるが、読書の方が自由だ。自分の思考の流れを優先して、インプット方法を変えることができる。ただ、自由だからこそ、自分の型がないとなかなか先に進めない。

再現性とは、学んだことを自分の知識として、実生活で活用することだ。エンターテイメントはその場で楽しめば良いが、そうでない何か目的があってインプットする場合は、行動として知識を活用することになる。その際、動画のイメージをもとに理解して、行動に繋げることも良いが、自分の場合は、言語をもとに行動をイメージして、実行する方が向いている。なぜなら、その結果を再び言語として書き出し、客観的に振り返りができるからである。

好みによって違うと言えばそれまでだが、やはり文字が生まれてから数千年続いてきた書籍という媒体には豊富な学びが詰まっている。本を読もう。

【茶道】音を嗜む

日常の中で聞こえる音を味わう瞬間はあるだろうか。

稽古にて、茶碗へ柄杓からお湯を注いだとき、いつもより高い音がした。お湯が流れ、茶碗に接したとき、何かの楽器を優しく叩いたかのように音が鳴った。

いつもと違うことを察知した上に、楽器のような音色。このままお湯を注ぎ続けてみたいと思ったが、柄杓の中のお湯がなくなったことで、その音楽は終わった。側から見れば、ただお湯を注いでいるだけであるが、そこに音の芸術が存在している。そう感じた。

あとでゆっくりと茶碗をのぞいてみると、いつもの茶碗とそこの模様が違っている。いつもの茶碗は玉が回るルーレットのように中心が低く、外側が高い。今回のものは、平らであり、中心に波模様が入っていた。また心なしか器の高さが高く、音が響きやすい作りのようにも見えた。今日のような音が聞こえてこなければ、そんな細部まで観ることはなかっただろう。

音は空気の振動によって、人間の耳に届く。その振動は、物体と物体が接触したことによって生じる。先ほどの例で言えば、お湯と茶碗である。その場合は、お湯が「動」いて、茶碗が「静」止したまま受け止める。この「動」と「静」の組み合わせによって生まれた。

接触というと、両方が動いている姿が思い浮かぶが、考え直してみれば、意外にどちらかが止まっていることも多い気がする。足音だって、ドアや襖を閉める音だって、椅子をひく音だって、動いているのは一方だ。床や柱は動かない。

動いている主体よりも、その動きを受け止める物体の方が、音の要素を決めているかもしれない。足音も、椅子を引く音も、床が柔らかければ、大きな音はならない。目立たない方が担っている役割が大きいのかもしれない。

自分も多く人の言葉や気持ちを受け止めて、良い音を奏でることができる人間でありたい。

【マインド】ただひたすら聴く

はたして日頃、どれだけ人の話を聴くことができているだろうか。

今日はやたらと人の話を聴く日であった。人生の先輩しかり、後輩しかり、年齢、立場さまざまな人の話を聴いた。ちょっと聞いてよ、的なものが多く、予定していたものではない。それでも自然と話を聞く立場になっているのが、自分の性のように思う。

その中でも、ともすれば聴いているふりになりやすいのが、後輩の話である。自分も悩み、乗り越えた経験について、今後輩が悩んでいることは多い。同じ立場にいた身からすると、痛いほど相手の気持ちがわかる。そして、解決策を提示したくなる。自分の経験を語りたくなる。その「したくなる」気持ちを抑え、聴き続けるのが想像以上に難しいのだ。

今の自分だからこそ、納得し、理解できていることは多い。人は悩んでいた当時の状態には戻れないので、自分は共感しているつもりでも、相手からしたら、あなたに何がわかりますか、という気持ちになるかもしれない。

結局、相手は解決策も、先輩の経験談も求めていないことが多い。ただ、モヤモヤしている気持ちを聴いてほしい、これでいいのかなと悩んでいることを話したい、それだけであることも多いと感じる。だから、ただひたすら「聴く」だけで良いのだ。

これは知識や経験が増えるほど、難しくなる。相手に「そんなこともわからないのか」と無意識に見下すような気持ちが生まれやすく、純粋に話を聞きにくい心境になる。そして、そのような気持ちは相手に伝わる。聴いてもらえていない、と。

失敗経験を話すと良い、というようなノウハウはあるが、タイミングを間違えれば、逆効果になることだってある。いや、タイミングというより、そういったテクニックでどうにかしようと考えているスタンス自体が「聴く」よりも何か「言う」ことに焦点を合わせている。

年下や立場の弱い人に対してほど、自分の器量が表れる。ただ、ただ話を聴こう。

【AI】教育システムを自分で作れるか

学びたいことがたくさんある、と言うなら、出してみよ。

今日、MyGPTsを使い始めた。Chat GPTに指示や背景知識をあらかじめセットして、専門的なことにも対応できるようにした生成AIである。

・こんな感じの画像が欲しい、と言って画像を生成してくれたり
・謝罪のメール文書を英語で作って、概要はこれ、と入力して、メールを作ってくれたり
・写真をアップロードして、アニメ風なイラストに変換してくれたり
・動画のサマリーを作ってくれたり
・ポスター作成も一瞬だ。
・英会話の相手もしてくれるので、日常会話の練習なんかもできる。

これなら学校の先生の代わりに教科ごとにMyGPTsを作って、動画授業を見て、わからないところは GPTに入力して解説をしてもらう。なんなら理解力を確認するためのテストだってすぐに作ってくる。話し方や書き方もキャラクター風にして、と言ったらそのようにテイストが変わる。最高だ。

自分がどんなことを学びたいのか、どのような方法で学びたいのか、教育システムを自分で作ることが求められる。誰かの作ったシステムを活用することはできるが、自分用にカスタマイズするところにAIの面白さがあると感じる。

これまで学んできたようなことは不要になる、と極論が出てきやすいが、それでもAIを使用するのに、文字や数字の知識や運用能力は必要である。基礎学力がなければ使いこなすことはできない。

どこまでをAIで学ぶのか、この線引きは難しい。もうすでにAIはインターネットのように必要不可欠なものとなる。ここまできて、子どもの教育においてAI抜きで考えることは不可能である。盲目的にならず、固定観念にとらわれず、しなやかな思考で活用していきたい。

【英語】現在地の確認

学習とは、できなかったことをできるようにすること

今日はTOEICを受験した。900点の目標にはまだ及ばないものの、過去からの成長を感じられる機会となった。かねてよりTOEICは目的ではなく通過目標としての位置付けと考えているが、それでもやはり出来、点数が気になるのは人間の性である。

受験後に全く生産性のない、テスト受験者の感想や講評などのSNSを見ている自分がいる。そんな一面も自分、と受け入れつつ、テストを受験した自分自身の振り返りをする。

総論として、リスニングもリーディングも全体的に意味は掴めているが、詳細となるで理解が曖昧なところがある。最後の詰めの部分が高得点への壁になっていると感じた。プロスポーツ選手が基本動作を繰り返し、一つ一つの動作の完成度、恣意度(思い通りの動きができる度合い)を高めているように、自分も一文一文への理解を高めていく必要がある。

ゆっくり聞いて(読んで)、100%理解できたと感じるところから、だんだんと速度を上げていくようにしなければ、いつまで経っても雑な理解から進まない。茶道でも同じだが、最後は「丁寧さ」がものをいうのだ。

900点の目標に対して、800点以上は取れている手応えがあり、このままどんどん進んでいきたいと思う一方、目標達成には、急いで問題を解きまくったりしても、届かない感じがしている。近くに見えている山も、実際には遠くにあるように、もう一度、しっかりと自分の現在地を把握しなければならない。

目標設定より現状把握のが難しいと感じる。テストの結果は点数で返ってくるが、自分が何ができていて、何ができていないのかは、自分で言語化しなければ明らかにならない。英語のことでいうなら、英語(情報)をインプットして、自分がどんな反応をしているのか(プロセス)、そして、正しく回答(アウトプット)できているのかを理解する必要がある。

点数はアウトプット部分へのフィードバックであり、プロセスの部分は自分自身でしかわからない。ここがわかれば、アウトプットが向上することは間違いない。

テストの難易度なんて気にしないてよい。自分にとっての難所を見つけよう。

【茶道】集中には対象が必要である

集中力とは存在しない概念である。

本日の稽古にて、イマイチ集中し切れていないように感じたので、「よし、集中しよう」と意識した。しかしながら、何を、どうすれば集中できるのだろうか、と心の中で戸惑いが生まれた。

そもそも人間はスイッチを押せば集中できるようにはできていない。いや、集中とは何か、から考え始める必要がある。集中を英語で言えば、concentration。動詞ならconcentrateである。集中するは動詞的な意味なので、concentrateとなるが、これにはonという前置詞が必要となる。そして、その後には名詞(何に対して)としての対象が必要である。

つまり、集中する、という動詞単体では存在しない概念であり、ましてや集中力といった一般的な能力を定義することは困難である。だから、何に対して集中するのか、と対象を定めるところから始めなければならない。

今回の場合は、茶の湯の稽古であるので、お手前となるが、立ったり座ったり、道具を持ったり置いたりする中で、対象を定めることは難しい。自分の手に集中したとしても、流れの中で、立ち上がらないければならないこともある。対象を切り替えれば良いのか、とも思ったが、それは次の段階のような気がしている。

あれこれ悩んだ結果、現時点での結論は、自分の感覚に集中する意識だ。

今、自分は何を感じているのか。道具を取るのに、上半身をどう倒し、手をどのように動かし、お道具からどんな手触りを感じるのか。

茶筅から竹の匂いを感じている。お湯の入った茶碗の温かみを感じている。水が柄杓から注がれている音を感じている。といった、たくさんの感覚が茶室には存在している。これらを一つ一つ丁寧に感じ、その身体感覚に集中し、理想に近い動きを実現していくことが究極なのでないかと考える。

オンラインでは絶対に再現できない世界が茶室にはある。

【英語】耳をチューニングする

人は話すとき、それぞれのリズムとメロディを持つ

今日は通訳のオンラインレッスンにて、英日通訳をしたとき、自分の変化を感じた瞬間があった。最初はいつものごとくネイティブのスピードに振り落とされ、文頭から聞き取りができない状態であった。そもそも人の話を喋り出しから100%集中してきく習慣はない。かなり意識しないと冒頭部分は聞き逃してしまう。

さて、話を戻す。

その全く聞き取れない状況で、シャドーイングをするように、と講師から指示があった。その際、話者になったつもりでマネをしてくださいとも言われる。何度か聞く中で、真似をしていると、アクセントや発音などはもちろんであるが、音楽のようなリズムやメロディを感じた。

これは、以前から音楽と英語は共通であると感じていたが、今日は、そのリズムやメロディが、話者の個性から生まれると気づいた。考えてみれば当たり前の話であるが、人によって英語を話すリズムや発音は異なる。その結果生まれるメロディも違う。

だからこそ、その話者が奏でる音楽(英語)に耳をチューニングする必要がある。クラシックを聴く時と、アニソンを聞く時では聞き方(楽しみ方)が違う。フルートの音を聞く耳でいたら、いきなり声優さんのハイトーンボイスが聞こえたら、おそらく聞き取れないだろう。

思っている以上に、意識は大切である。どういう前提を持って待ち構えるのか。どんな文脈になるかを予測するか。そういった背景によって、自分の認知は変わる。耳をチューニングするとはいわば、自分の認知の前提を意図的に変化させることかもしれない。

この人はこんな話し方をする。音程やリズムはどんな感じか、イメージする。そのイメージの中で、音を聞いてみると、きっと今までより良く聞こえてくるはずだ。その練習として、話している音声を真似するシャドーイングが有効なのであろう。

これは英語に限らないかもしれない。他人の話をよく聞こうとするときは、その人の声に自分の耳をチューニングしたら良い。きっと、今まで聞こえてこなかった音が聞こえるはずだ。