サナフミのラーニングジャーナル

実践からの学びをまとめています

【マインド】失敗から気持ちを切り替える

失敗をしたとき、ちょうど良い反省の度合いはどのくらいか。

今日、1ヶ月前に処理した件で、数件ミス発覚した。昨日のことならまだしも、1ヶ月も前のことなので、原因を明らかにするために時間を要した。また、終わったことに対して、修正が発生するので、全くもって生産性のない仕事となる。気持ちも落ち込む。

起きてしまったことは仕方ない。判明した原因の根本を考え、再発防止策を考える。これが、問題解決の基本である。対応としては、その通りだが、自分のメンタル面はどうだろうか。楽観的に「人間だもの、仕方ない」と切り替えるか、「どうしてそんなことをしたのだろうか」と自分の判断の深いところまで内省するか。私は後者の方だ。

慣れていない作業だった、と言い訳も考えたくなる。もっとこうすればよかったと思いつくこともたくさんある。どれも考えても仕方がないとわかっていても、心に浮かんでくる。誰も責めていないのに、迷惑かけてしまった、と自己肯定感を下げる方向に向かっていってしまう。

さらに、そういった自分を客観視すると、「何必要以上に落ち込んでいるんだよ」と、これまた自分に否定的な評価を下す。もうどうしたら良いのか、と思ってしまう。

こういったときは、他人の力を借りるしかないと思う。自分でいくら、気持ちを切り替えようと考えても、「切り替える」と言っている時点で、マイナスなことを考えないようにしようとしているだけで、実際は何も変わっていない。

つまり、まず最初に心に浮かぶのはマイナスな感情であり、その認知を頭を使って変換しようとしている状態である。感情の根っこにある心の部分は、変わっていない。こういったときにとにかく話を聞いてくれる存在がいると、健常な状態を保てる。

気持ちは切り替えるのではなく、切り替わるのだ。

【マインド】言い切る勇気

これは間違いない、絶対であると言い切れることはあるか。

多様性、個性を大切に、と言われるようになって久しいが、人それぞれ考えを尊重しようとする柔軟性は大切である。しかし、なんでもアリではない。自分の個性や考えを認めてもらうのは、同時に相手のことも受け入れることが条件となる。一方的に自分の言うことを聞いてもらおうとするのは甘えである。

とはいえ、相手の意見を受け入れすぎるのも良いとは言えない。あなたの考えは理解できる、しかし、私はこう思う、と受け入れつつ、意見交換をしていくことが健全なコミュニケーションの基本だと考える。

そんな中、相手が間違っているとき、例えば法を犯すようなこと行動をした時、「ダメだ」と止めることはできるだろうか。それもその人の考えである、と見過ごすことはないだろうかと考えることがある。この場合、法律という明確な基準があるため、判断は容易だが、相手を止める行動をするかどうかが焦点になる。当然、止めに入る、と言いたいところだが、実際は相手によるところが本音な気がする。

そして、何より難しいのか、法律の範囲だが、倫理的に許されない行為だ。何を正しいとするのか、その明確な共通の基準がない。日本の文化、慣習はある。その空気のようなものは、ルールではない。その環境において、「絶対にこうした方が良い」と言い切れることはあるだろうか。

自分の中で何が正しいのか、を問い続けつつ、大きな方向性として、こちらが正しいというものを定めていくのが人生。唯一の正解を見つけるのではなく、これは絶対ダメというゴルフのOBゾーンを明らかにしていくようなものとも言えるかもしれない。

【書籍】わかったことを自分のものにする

本を読み、内容を理解し、記憶し、実践。その先が大切。

このラーニングジャーナルは主に体験したこと、実践したことからの学びを言語化している。そのため、結果的に書籍の内容と同じようなものになることがある。しかし、一度自分の頭を通し、何も参照せず文章を作っているので、自分の中での内容の意味は異なっている。

読書をして理解した内容を言語化することで、記憶に残る。そして、残った記憶を元に目の前の状況で、その記憶を頼りに行動を変化させる(学んだことを実行する)さらに、その行動を振り返り、知識と実践において何が違ったのか、自分は、何を感じたのかを言葉にする。そうすることで、学びが自分のものとなる。

さらにその先がある。実践からの学びを言語化したものを、自分の力で体系化する段階である。これは難しい。材料があるからゼロからではないが、それこそ自分で本を書くような作業である。あれこれまとめようとしても、何か納得がいかなかったり、論理が弱いことに気づいたりする。

そうやってまとめる段階にきて、元々参照していた書籍に立ち戻ると、自分が読み落としていた箇所がたくさん見つかる。だから、自分の体系化はうまくできないのか、とまた一段上の気づきを得ることができる。一粒で二度おいしい体験。

本を読んでから、自分で体系化するまでは直線的に完了するわけではなく、上記のように、書籍に戻ったりしながら、サイクルを回していくように進んでいく。一回でうまく体系化できることはほとんどない。できたと思っても、それは思い込みであり、内容は不十分である。

効率を考えすぎず、必要な時間をかけることが、結果的に一番の近道となる。

【英語】単語より構造

単語の推測は容易だが、文構造の推測は難しい

今日から通訳のオンラインレッスンを始めた。説明はほどほどに、とりあえずやってみようと、日英と英日それぞれの通訳を行った。スピーチ映像を区切ってみて、そこまでの内容を通訳する流れであった。

英語から日本語はボロボロである。通訳するためのインプットが母国語の方が簡単であり、英語はそもそも通訳するための内容が完璧に聞き取れない。英語教材ならまだしも、リアルネイティブのスピーチは、スピードが早く、省略や強弱が激しく、なんとも聞きづらい。引き続き、英日通訳は、聞き取りの鍛錬していくしかない。

そして、日本語から英語の通訳はなんとか形になったが、意外にも日本語でも一発で正確に聞き取ることは難しい。「皆保険」を「介護保険」と聞き間違えたり、「とはいうものの」と言った部分が抜けて意味が変わってしまったりした。

単語はまだしも、文構造を決める言葉を聞き逃すと、文章を構成することができず、どこまでが意味の塊であるかわからなくなる。話の流れを推測することは必要だが、聞き取れなかった内容を推測で補うと、内容の意味が変わってしまいかねない。それは避けなければならないことである。

普段はあまり意識しないが、日本語は文末まで聞き取らないと、意味が確定しない。「私は〜〜で、〜〜ではない」と最後に否定がくると、そこまで話していた内容が正反対の意味になる。「〜というのは、嘘です」とみたいに責任回避構文ができるのだ。

意外性を出す場合は、話の流れを急に変えることがあるかもしれないが、基本は、相手にわかりやすいような流れにするのが親切である。これは通訳に限らず、日本語における日常会話で意識したいところだ。

こんなにも文構造を意識するようになったのは英語のおかげである。外国語を学ぶ意義の一つは、母国語から離れてみることで、自国の言語の特徴がわかるところである。新しい認知の枠組みを自分にインストールしているようなものだ。

translationはAIの得意分野であるが、interpretは人間の得意分野である。

【英語】認知に至るまでの変化

意味がわからない音が意味を持つものへ変化する

先日からアジア圏のメンバーとの会議が続いている。最初は、全く聞き取れなかったクセのある英語もだんだんと何を言っているのかわかるようになってきた。いわば雑音だったものが、意味を持つ音声に変わってきたのである。

この期間中に準備や練習などはしていない。ただ相手の英語を聞き続けていく中で、自分の中に何かしたらの変化が起こった結果、英語が意味を持って聞き取れるようになってきた。では、自分の何が変化したのだろうか。

おそらく、自分の持っている英語の知識と相手の話す英語がリンクし始めた結果ではないか。つまりいつも聞いている英語と相手が話すクセのある英語は同じものである、と脳が判断し始めたのだと思う。意味がわかるというより、音として同じ英語だと認識できたことが大きな要因だと考える。

今回、英語を聞き取って日本語で何というか(どんな意味か)と考えていたら、同じような変化は起きなかったと思う。あくまでも、英語として純粋に聞き取ろうと意識した結果、(自分の中にある既知の)英語と(相手のクセのある)英語がつながったのだ。

日本語で考えるなら、標準語と関西弁が同じ日本語である、と判断できたような感覚である。外国人からしたら、最初は同じ日本語だと認識することは難しいが、8割は同じことを言っているので、そのうち同じと判断できる。クセのある英語は関西弁だったのだ。

とはいえ、聞き取りが完璧だったとは到底言えない。骨子は捉えられるが、詳細はかなり怪しい。既知の英語を固めて、応用英語にも対応できるようにならなければ。

世界には、英語教材のように綺麗な英語を話す人は、ほとんどいない。相手は悪くない。

【茶道】枝葉ではなく幹を意識する

重心は目に見えない、だからこそ意識して感じることが必要だ。

今日も茶道の稽古があり、茶筅飾りのお手前をした。やったことがある手前であり、難しさを感じることはなかった。しかし、稽古の途中、具体的には、左手で水指の蓋を立てかけ、右手で柄杓を取ろうとした瞬間、違和感を持った。違う言葉で表すなら、不安定感とも言える。

バランスを崩したわけではないが、柄杓を取るために上半身全体でバランスを取る必要があった。その原因は、左から右に重心が移った際、柄杓を取ろうとする右手、掌に近い部分に重心が行きすぎたからだと考えている。

普段あまり意識しないが、身体を動かすとき、身体は「根っこの部分」足で言えば、股関節周り、手でいれば肩関節から動いている。決して脚や腕だけが動いているわけではない。

そして、お辞儀をするときをイメージして欲しい。美しく礼をする人は、腰から屈体している。頭だけペコっと下げる姿は美しくない。身体の中心に近いところに意識を持って体を動かすと、さまざまな所作が安定し、美しくなる。

今日のお手前も、まさに手先ではなく腰を意識する必要があった。つまり、左手で蓋を置いたのち、身体の中心(特に腰)を意識し、重心を正座をしている身体の真下に持ってきて、そこから右手で柄杓を取るようにすれば、安定し、美しい所作になる。左から右に重心が移るのではなく、左手、右手どちらを動かすときも、極力中心から重心を動かさないことが好ましい。

身体の回転動作と腕(特に肘関節の伸縮)によって、実現したい動作に適した動きを意識的に行えるようになるのが理想である。が、そんな日が訪れるのであろうか。先は長い。

偉そうに言語化しているが、全くもって体現できる自信がない。日々精進である。

【英語】イメージを言葉にする

英語を話すとジェスチャーが増えるのは、想像しているから。

今日はアジア圏の法人と会議があり、独特のイントネーションがある英語のリスニングに四苦八苦した。訛りがあっても問題なく聞き取る人がいて、すごいと尊敬の眼差しを向けていた。

その人が英語を話すときは、自然と手を動かしながら、話している。特に決まったルールはないようだが、丸を描いたり、揺らしたり、止まることなく絶えず動いていた。その理由を考えてみると、おそらく言いたいことのイメージを具現化しているからではないか。

日本語を英語にするというより、言いたいことは何かを考える時点で、イメージ(映像)を持ち、そこからダイレクトに英語にしているような気がする。もちろん、難しい概念を考える時は、サポート的に日本語で思考しているかもしれないが、アウトプットまでプロセスが長くなるので、イメージが最初であるはずだ。

イメージの話を言葉で表現するのは難しいが、試みてみる。

まず相手が話した英語を映像として理解する。例えば、you don't need to work today.と聞いた瞬間、休日の姿や前後の文脈から働かない理由が思い浮かんでいることが好ましい。「今日、働く必要がありません」と日本語を思い浮かべることは避けたい。日本語にすると意味がわかっても、意図が汲み取るのは難しく、仮に汲み取れたとしても、時間がかかってしまう。

これは自分が言いたいことを表現する時も同じで、最初は日本語を補助輪として、言いたいことを考えて、英語を話す。しかし、その補助もできるだけないことが好ましく、日本語で言いたいことを考える思考から、言いたいことをイメージ化するようにしたい。

このイメージ化については、言語化が不十分なため、引き続き考え続けたい。