サナフミのラーニングジャーナル

実践からの学びをまとめています

【書籍】大人になってわかる国語の大切さ

活字を欲している。もっと本を読みたい。

最近、英語を学習する際、長文読解の問題に取り組むことが多い。そこで、英語の長文を読む習慣がついてきた頃、日本語の本を読むのも楽になっていることに気づいた。

言語は異なるが、文字を読み取り、意味を想起し、内容を理解する。

この思考プロセス自体は同じなのだ。インプットする文字が違うだけである。そう考えると、英語学習で行なっていることが、そのまま日本語学習(国語)に活かせるはずだ。英語も日本語も語学であり、必要な訓練は同じであろう。母国語か外国語かの違いは留意するものの、原則は通じている。

そう考えると、いかに自分が国語学習を雑にやってきたのかと、この歳になって猛反省している。英単語を覚えるように、日本語もわからない単語は調べるべきであり、構文という文章の型を理解する必要があるのだ。

速読とか、要点をつかむ読み方とか、いわゆる受験テクニックに走り、丁寧な読み、じっくり正確に読む行為を蔑ろにしていた。なんとなくわかったつもりでOKとしていたことに、あたらめて気づく。焦る必要はなかったのだ。早く読めないのであれば、ゆっくり読めばよかっただけだ。

まあ、学生時代のことなので、自分ができない、という事実を受け入れるのは難しかったかもしれない。頭ではわかっていても、実際は、学年が大きく下の簡単な参考書やドリルを買うことはできなかった。恥ずかしかったのだ。

そういう意味では、自分の実力を客観的に把握できることも学習能力の大切な要素かもしれない。自らがわからなければ、何も始まらない。そして、その状況を理解し、表現するのは言語である。「なんとなく」ではなく、何ができて、何ができないのか、具体的には何かと言葉にすることで思考が進む。

何をするにも、言葉ありきだ。今からでも遅くない。国語を、母国の言葉を学ぼう。

【マインド】もう微熱が下がることはないと思った

1週間以上、微熱が続き、体がだるかった。ずっとこのままなのかと思った。

先週発熱をしてから、薬を飲んだり、内科に行ったり、ひたすら寝たりして、多少回復したものの、完治したと言えない体調不良が続いた。

原因がわからないことは、想像以上に不安であった。

一度、医師に風邪です、と診断され、出された薬を飲んでみたものの、治らない。変わらず鼻づまりが続き、熱が下がらない。これ以上どうしたら良いのか、と悶々とした気持ちになっていた。最終的には、耳鼻科に行って、副鼻腔炎と診断された。今は薬が効いて、体調が戻ってきたところである。

ただ、今日に至るまで、不治の病ではないかとネットで病気について調べたり、自分が元気になったと思い込んでみたりしたが、何をやっても気分は晴れなかった。体調がイマイチな時は、根拠のない自信を持つことも難しい。自分を騙すパワーが出ない。

健康第一というが、何かしら病気になることはある。その時に原因がわからないことほど怖いものはないと感じた。微熱であっても、不安が大きくなると精神的な面で勝手に重症だと思い込みかねない。

病の元は心から。

【書籍】「動画で学ぶ」と「読書で学ぶ」の違い

「動画で学ぶ」と「読書で学ぶ」は何が違うのか

このところBIツールに関心を持つようになり、色々と調べている。自分の想像を超えてテクノロジーが進化していることを知ると同時に、社内で実行できることは限られている現実にも向き合っている。そんな中でも、Excelの進化はすごい。通常のExcelであってもBIツールと遜色ない機能が搭載されている。

仕事上でお付き合いのある人からBIツールの説明を聞いた中で、Excelでもできることがあると知り、その帰りに本屋へ立ち寄り入門書を購入した。PCの話なのに、今さら書籍を買って学ぶなんて効率が悪いと思ったりもしたが、書籍を読んだ結果、個人的には活字の情報が好きだと感じた。

動画と読書の違いは、学ぶ能動性、情報処理の自由度、再現性だと考える。

学ぶ能動性とは、どれだけ自分が主体的に学びを得る必要があるかである。動画は、ボタンを押せば、情報が自動的に発信され続ける。スライドや写真、映像を通じて、イメージしやすくわかりやすい。しかし、ぼーっと見ていても、動画は進み時間が経っている。見たことに満足して終わりかねない。

その一方で、読書は、自分で文字を読まない限り情報のインプットが進まない。ぼーっとして読めるほど簡単なものは、ほとんどない。書いてある文脈、言葉はどういう意味かと既知の知識をヒントに新しい概念や知識を獲得していくプロセスである。歯応えはあるが、身体に良い食べ物のようなものだ。

情報処理の自由度とは、どのくらいの量を、どんなペースでインプットするのかである。動画の場合は、コンテンツは決まっており、進むペースも発信者によって決まる。一方で、読書は、1ページずつでもよし、行ったり来たりして読み返しても良い、途中でやめても良い。動画でもできるが、読書の方が自由だ。自分の思考の流れを優先して、インプット方法を変えることができる。ただ、自由だからこそ、自分の型がないとなかなか先に進めない。

再現性とは、学んだことを自分の知識として、実生活で活用することだ。エンターテイメントはその場で楽しめば良いが、そうでない何か目的があってインプットする場合は、行動として知識を活用することになる。その際、動画のイメージをもとに理解して、行動に繋げることも良いが、自分の場合は、言語をもとに行動をイメージして、実行する方が向いている。なぜなら、その結果を再び言語として書き出し、客観的に振り返りができるからである。

好みによって違うと言えばそれまでだが、やはり文字が生まれてから数千年続いてきた書籍という媒体には豊富な学びが詰まっている。本を読もう。

【茶道】音を嗜む

日常の中で聞こえる音を味わう瞬間はあるだろうか。

稽古にて、茶碗へ柄杓からお湯を注いだとき、いつもより高い音がした。お湯が流れ、茶碗に接したとき、何かの楽器を優しく叩いたかのように音が鳴った。

いつもと違うことを察知した上に、楽器のような音色。このままお湯を注ぎ続けてみたいと思ったが、柄杓の中のお湯がなくなったことで、その音楽は終わった。側から見れば、ただお湯を注いでいるだけであるが、そこに音の芸術が存在している。そう感じた。

あとでゆっくりと茶碗をのぞいてみると、いつもの茶碗とそこの模様が違っている。いつもの茶碗は玉が回るルーレットのように中心が低く、外側が高い。今回のものは、平らであり、中心に波模様が入っていた。また心なしか器の高さが高く、音が響きやすい作りのようにも見えた。今日のような音が聞こえてこなければ、そんな細部まで観ることはなかっただろう。

音は空気の振動によって、人間の耳に届く。その振動は、物体と物体が接触したことによって生じる。先ほどの例で言えば、お湯と茶碗である。その場合は、お湯が「動」いて、茶碗が「静」止したまま受け止める。この「動」と「静」の組み合わせによって生まれた。

接触というと、両方が動いている姿が思い浮かぶが、考え直してみれば、意外にどちらかが止まっていることも多い気がする。足音だって、ドアや襖を閉める音だって、椅子をひく音だって、動いているのは一方だ。床や柱は動かない。

動いている主体よりも、その動きを受け止める物体の方が、音の要素を決めているかもしれない。足音も、椅子を引く音も、床が柔らかければ、大きな音はならない。目立たない方が担っている役割が大きいのかもしれない。

自分も多く人の言葉や気持ちを受け止めて、良い音を奏でることができる人間でありたい。

【マインド】ただひたすら聴く

はたして日頃、どれだけ人の話を聴くことができているだろうか。

今日はやたらと人の話を聴く日であった。人生の先輩しかり、後輩しかり、年齢、立場さまざまな人の話を聴いた。ちょっと聞いてよ、的なものが多く、予定していたものではない。それでも自然と話を聞く立場になっているのが、自分の性のように思う。

その中でも、ともすれば聴いているふりになりやすいのが、後輩の話である。自分も悩み、乗り越えた経験について、今後輩が悩んでいることは多い。同じ立場にいた身からすると、痛いほど相手の気持ちがわかる。そして、解決策を提示したくなる。自分の経験を語りたくなる。その「したくなる」気持ちを抑え、聴き続けるのが想像以上に難しいのだ。

今の自分だからこそ、納得し、理解できていることは多い。人は悩んでいた当時の状態には戻れないので、自分は共感しているつもりでも、相手からしたら、あなたに何がわかりますか、という気持ちになるかもしれない。

結局、相手は解決策も、先輩の経験談も求めていないことが多い。ただ、モヤモヤしている気持ちを聴いてほしい、これでいいのかなと悩んでいることを話したい、それだけであることも多いと感じる。だから、ただひたすら「聴く」だけで良いのだ。

これは知識や経験が増えるほど、難しくなる。相手に「そんなこともわからないのか」と無意識に見下すような気持ちが生まれやすく、純粋に話を聞きにくい心境になる。そして、そのような気持ちは相手に伝わる。聴いてもらえていない、と。

失敗経験を話すと良い、というようなノウハウはあるが、タイミングを間違えれば、逆効果になることだってある。いや、タイミングというより、そういったテクニックでどうにかしようと考えているスタンス自体が「聴く」よりも何か「言う」ことに焦点を合わせている。

年下や立場の弱い人に対してほど、自分の器量が表れる。ただ、ただ話を聴こう。

【AI】教育システムを自分で作れるか

学びたいことがたくさんある、と言うなら、出してみよ。

今日、MyGPTsを使い始めた。Chat GPTに指示や背景知識をあらかじめセットして、専門的なことにも対応できるようにした生成AIである。

・こんな感じの画像が欲しい、と言って画像を生成してくれたり
・謝罪のメール文書を英語で作って、概要はこれ、と入力して、メールを作ってくれたり
・写真をアップロードして、アニメ風なイラストに変換してくれたり
・動画のサマリーを作ってくれたり
・ポスター作成も一瞬だ。
・英会話の相手もしてくれるので、日常会話の練習なんかもできる。

これなら学校の先生の代わりに教科ごとにMyGPTsを作って、動画授業を見て、わからないところは GPTに入力して解説をしてもらう。なんなら理解力を確認するためのテストだってすぐに作ってくる。話し方や書き方もキャラクター風にして、と言ったらそのようにテイストが変わる。最高だ。

自分がどんなことを学びたいのか、どのような方法で学びたいのか、教育システムを自分で作ることが求められる。誰かの作ったシステムを活用することはできるが、自分用にカスタマイズするところにAIの面白さがあると感じる。

これまで学んできたようなことは不要になる、と極論が出てきやすいが、それでもAIを使用するのに、文字や数字の知識や運用能力は必要である。基礎学力がなければ使いこなすことはできない。

どこまでをAIで学ぶのか、この線引きは難しい。もうすでにAIはインターネットのように必要不可欠なものとなる。ここまできて、子どもの教育においてAI抜きで考えることは不可能である。盲目的にならず、固定観念にとらわれず、しなやかな思考で活用していきたい。

【英語】現在地の確認

学習とは、できなかったことをできるようにすること

今日はTOEICを受験した。900点の目標にはまだ及ばないものの、過去からの成長を感じられる機会となった。かねてよりTOEICは目的ではなく通過目標としての位置付けと考えているが、それでもやはり出来、点数が気になるのは人間の性である。

受験後に全く生産性のない、テスト受験者の感想や講評などのSNSを見ている自分がいる。そんな一面も自分、と受け入れつつ、テストを受験した自分自身の振り返りをする。

総論として、リスニングもリーディングも全体的に意味は掴めているが、詳細となるで理解が曖昧なところがある。最後の詰めの部分が高得点への壁になっていると感じた。プロスポーツ選手が基本動作を繰り返し、一つ一つの動作の完成度、恣意度(思い通りの動きができる度合い)を高めているように、自分も一文一文への理解を高めていく必要がある。

ゆっくり聞いて(読んで)、100%理解できたと感じるところから、だんだんと速度を上げていくようにしなければ、いつまで経っても雑な理解から進まない。茶道でも同じだが、最後は「丁寧さ」がものをいうのだ。

900点の目標に対して、800点以上は取れている手応えがあり、このままどんどん進んでいきたいと思う一方、目標達成には、急いで問題を解きまくったりしても、届かない感じがしている。近くに見えている山も、実際には遠くにあるように、もう一度、しっかりと自分の現在地を把握しなければならない。

目標設定より現状把握のが難しいと感じる。テストの結果は点数で返ってくるが、自分が何ができていて、何ができていないのかは、自分で言語化しなければ明らかにならない。英語のことでいうなら、英語(情報)をインプットして、自分がどんな反応をしているのか(プロセス)、そして、正しく回答(アウトプット)できているのかを理解する必要がある。

点数はアウトプット部分へのフィードバックであり、プロセスの部分は自分自身でしかわからない。ここがわかれば、アウトプットが向上することは間違いない。

テストの難易度なんて気にしないてよい。自分にとっての難所を見つけよう。