【茶道】重みを感じる
同じ所作であっても、行う人によって重さが違う
今日は、箱のお手前を引き継ぐ。師のお手前を拝見し、自らがお手前をする。当然一度見ただけでできるわけがないが、それでも精一杯真似をして、再現することに挑戦した。
普段の稽古で、師のお手前を見ることはない。初めて拝見したと思えるくらい珍しい。その姿を見て、細かい所作の美しさはもちろんだが、全体的に師の所作に「重み」を感じたのだ。決してゆっくり動いているわけではない。何か間をためているわけでもない。しかしながら、そこに重量感と言えるようなものがあった。
車の車体が低い方が安定するように、身体においても重心は低い方が安定する。ただ、物理的なものだけではなく、佇まいから安定感を感じるのだ。年月を重ねて磨き上げてきた技量、それに対する自信から生み出される独特の雰囲気がそこにある。
ポイントは3つとか、効率的にスキルアップとかけ離れた世界。決まったお手前を何度も何度も繰り返し、その中にある機微に気付き、一つひとつ体得することでしか身につかないものがあるように感じた。継続は力なりとはよく言うが、言葉では表せない時間の積み重ねが人に力を与えるのではないだろうか。
そもそも人間の器量とは何で決まるだろうか。そのようなことを今日の師の姿から考えていた。経済力が人間を評価する基準として長期間幅をきかせてきたが、いよいよ違った尺度が大切だと多くの人が気づき始めていると感じる。
その一つに「重み」という要素があるような気がしている。それは、体重計では測れないものであり、経験から生み出させる心の重量とでも言えるかもしれない。
【茶道】支点を見出す
自然体で最大限の力を発揮するために、支点を見出す。
本日も、茶の湯の稽古で感じたことを書き記したい。
風炉のお手前では、柄杓を釜に置く場面がある。そこから湯を汲み、茶碗へ注ぐ。今日は、柄杓を握り、湯を汲んだその瞬間、いつもより重みを感じた。もちろん、道具が変わったわけでもなければ、お湯を入れすぎたわけでもない。
では何が違うのか。自分が柄杓を持つ手の位置が違ったのだ。
いつも通り持っているつもりであったが、よくよく思い返せば、いつもより中心から離れた場所を持っていた。その結果、作用点(柄杓の桶部分)から力点(持っている場所)遠くなり、支点がズレて、いつもより力を入れないとバランスが保てなくなったのだ。
小学生の理科の授業みたいな話であるが、私はこれまで日常においてこの力学を意識したことはほとんどない。プロの料理人であれば、包丁のどこの部分を握るのかは、ミリ単位で体得しているであろうし、プロ野球選手であれば、バットの握る位置は結果に直結するので、意識しているだろう。
些細なことではあるが、日常で扱う道具において、持つ位置を意識してみると良いかもしれない。自分が一番自然体に持つことができる位置はどこか。そして、それはなぜかを考える。道具は適切な目的があってこそ、道具の効果を発揮できる。力むことなく、長時間目的を果たすことができているか、考えてみるのも良い。
私の場合は、鉛筆の持ち方を考えてみたい。そもそも、何か考えごとをする際には、文字通り、紙(ノート)と鉛筆を使う人間である。外出中のメモはスマホを使い、PDF資料への書き込みはタブレットを使用するが、自分の頭の中にある考えを言語化するときは紙が好ましい。
ボールペンと異なり、鉛筆は時間と共に書きこごちが変化する。書き続ければ芯が丸まり、角度を変えれば、かすれたりする。この不確実性に加え、どこを持つのかによって、書き出す文字の質が変化する。もちろん、鉛筆の場合の支点を考えてみても面白いだろう。
自分がこだわる道具については、身体の一部と言えるように扱えるようになってみたい。
【茶道】放物線を描く
見えない軌道が見えると、目の前の動作が変わる
本日、茶の湯の稽古での気づきがあったので、感じたことを残したいと思い、筆をとる。
早いもので風炉の季節である。茶の湯には「炉」と「風炉」があり、「炉」は11月から4月のお手前であり、「風炉」は5月から10月のお手前である。それぞれ基本的な流れは同じであるが、作法が異なっており、違ったお手前をすることになる。
慣れないうちは、久しぶりにやると流れを忘れてしまうが、繰り返しているうちに、身体が動作を思い出してきて、考える前に身体が勝手に動く。なんとも不思議な感覚である。なんでも頭で考える時代において、感覚を大切にできる時間だ。
そんな中、本日は柄杓を動かしている時に「軌道」を感じた。身近な例で言えば、ボーリング。ボールを投げる時、手からボールが離れた後、腕は自然とそのままの延長線上を動く軌道を作る。むしろ、その腕の軌道まで意識することで、狙った方向へボールを投げることができる。
この感覚と同じで、柄杓を持つとき、柄杓の柄の部分を持つわけだが、どのような手の軌道を描いて、柄の部分まで手を持ってくるのか。さらには、柄杓を持った後、構えるまでの軌道はどこなのか。その見えない線を意識していることに気づく。
これは柄杓に限らず、茶筅や棗など、何かものを置くときに、ものを置くまでの軌道をイメージするととてもスムーズに動作を行うことができると感じた。取る、置く、すくう、何の動作をするにしても、前後の流れがある。その流れを見えない線を描くことによって、滞りなく滑らかなものにできる。
その軌道は、人それぞれ身体の特徴が違うからこそ、個人によって異なる。ましてや言語で説明することはできない。感覚、時空間の世界であり、正解なんてない。
日常生活でも見えない軌道を見てみよう。きっと美しい所作に繋がる。
【音楽】頑張るとは、力むことではない
世の中、力を入れるほど、上手くできないことは多い
篠笛の稽古にて、高い音を出すためにも、低い音の練習をする大切さを学ぶ。何をするにもわかりやすく成果が見えてほしいものだが、見えない基礎はやはり大切である。
実際に演奏曲で使わない音域(特に低音)は、力まず、唇の力を程よく抜いて、太い息を出すことが必要だ。息の向きも真下に吹く。音を出すだけなら平行に息を出したほうが鳴りやすいが、音が安定しない。あえて茨の道を通るのが良いのである。
この力まず、自然体で、が難しい。言葉にすると簡単で、理解することもできるのだが、実際に演奏することはできない。唇の力を抜いたら、息を出す穴が広がる。そうすると、笛に入る息が広がってしまい、上手く音が出ない。かといって、唇に意識がいくほど力が入る。
そういった時に、体をどう動かすのかを意識するのではなく、どんなイメージを持つのかを考えると上手くいきやすいと気づく。師が「地を這ってから、遠くへ伸びていくような息を」と言うと、唇の形など一部ではなく、自分の笛を吹く行為全体を捉えて、行動することができる。そのため、ぎこちなさが減るのだ。
幼い頃から何かをクリアしようとする時、よく頑張ります、と力を入れて解決しようとする場面が多かった。かけっこで走る時も、合唱で歌う時も、力を入れて頑張っていた。結果は悪くはなかったと思うが、今考えるに、自然体でリラックスしていたら、もっと上手くいっていたのだろうと思う。
大人になって言えば、英語学習でもこの原則は通用すると感じる。リスニングであれば、一生懸命聞き逃さないように、絶対に意味を理解しようと肩に力を入れて音声を聞くより、音楽を聴くように流れに沿って聞いた方がよく聞こえる。
もちろん、英語の文法や単語の知識があるのは前提であるが、「音」を聞き取るためにも、音程やリズム、イントネーションをつかむのに、力は必要ない。集中することは力むことではない。イメージ的には、音声に自分の耳をチューニングしていくような感じである。
何事においても「イメージを持つ」ことが大切だ。力まず、イメージを持とう。
【マインド】人生の伏線回収をする
かつてお世話になった人の思いは、年月が経ってこそわかる
ここのところ、お世話になった先輩や恩師の話を聞く機会が多い。相手の武勇伝や昔話はほどほどに、共に過ごした思い出話を掘り下げるところが醍醐味である。
自分と相手が過ごした時間の記憶は、当然自分の頭の中にある。その記憶は、時間が経つほど、どんな出来事があったのか薄れていき、自分が変化することで出来事への認知も変わっている。
しかしながら、そもそも記憶していることは自分の周りのこと、自分が見聞きしたことであり、知らないところで何が起こっていたのか、他人がどう思い、考えていたのかは当然知らない。だからこそ、時間が経った今、お世話になった方に聞くのだ。当時、どんな思いで、どんなことをしていたのか。聞いてみると驚きと感動の連続である。
ある恩師は、当時とても厳しかった。音楽の練習の時、失敗すると「もう演奏しなくていい」時間に遅れると「帰れ」と言われる。子どもだった自分はとても怖い思いをしていた。しかしながら、なぜ厳しくしていたのか。恩師に尋ねると、そうしないと収集がつかないほど子どもたちの協調性がなかったからだ、と話してくれた。
当時、子どもの保護者はわが子が協調性がないとは全く理解しておらず、「うちの子はちゃんとしている」と考えていたらしい。だから、厳しいことを言うと親から文句を言われたそうだ。恩師は「おたくのお子さんはですね、」と言いたい気持ちをグッと抑え「すみません」と頭を下げて過ごしたという。それでも厳しさは変えず、自分が言わなければならない、と使命感を持って子どもと接していたのだ。
もう何十年前の話だが、今話を聞くことで、厳しさの背景を知ることができた。子どもにあえて厳しく接するのも優しさ、くらいにしか感じることができていなかった自分。恩師の見えない苦労は聞かなければわからない。そして、それは当時聞いたって教えてくれないし、意味がわからない。今だからこそ味わえることなのだ。
お世話になった人の話を聞かせてもらおう。人生の伏線回収ができる。
そして回収で終わってはならない。いただいたものを次世代へ恩送りするのだ。
【書籍】大人になってわかる国語の大切さ
活字を欲している。もっと本を読みたい。
最近、英語を学習する際、長文読解の問題に取り組むことが多い。そこで、英語の長文を読む習慣がついてきた頃、日本語の本を読むのも楽になっていることに気づいた。
言語は異なるが、文字を読み取り、意味を想起し、内容を理解する。
この思考プロセス自体は同じなのだ。インプットする文字が違うだけである。そう考えると、英語学習で行なっていることが、そのまま日本語学習(国語)に活かせるはずだ。英語も日本語も語学であり、必要な訓練は同じであろう。母国語か外国語かの違いは留意するものの、原則は通じている。
そう考えると、いかに自分が国語学習を雑にやってきたのかと、この歳になって猛反省している。英単語を覚えるように、日本語もわからない単語は調べるべきであり、構文という文章の型を理解する必要があるのだ。
速読とか、要点をつかむ読み方とか、いわゆる受験テクニックに走り、丁寧な読み、じっくり正確に読む行為を蔑ろにしていた。なんとなくわかったつもりでOKとしていたことに、あたらめて気づく。焦る必要はなかったのだ。早く読めないのであれば、ゆっくり読めばよかっただけだ。
まあ、学生時代のことなので、自分ができない、という事実を受け入れるのは難しかったかもしれない。頭ではわかっていても、実際は、学年が大きく下の簡単な参考書やドリルを買うことはできなかった。恥ずかしかったのだ。
そういう意味では、自分の実力を客観的に把握できることも学習能力の大切な要素かもしれない。自らがわからなければ、何も始まらない。そして、その状況を理解し、表現するのは言語である。「なんとなく」ではなく、何ができて、何ができないのか、具体的には何かと言葉にすることで思考が進む。
何をするにも、言葉ありきだ。今からでも遅くない。国語を、母国の言葉を学ぼう。
【マインド】もう微熱が下がることはないと思った
1週間以上、微熱が続き、体がだるかった。ずっとこのままなのかと思った。
先週発熱をしてから、薬を飲んだり、内科に行ったり、ひたすら寝たりして、多少回復したものの、完治したと言えない体調不良が続いた。
原因がわからないことは、想像以上に不安であった。
一度、医師に風邪です、と診断され、出された薬を飲んでみたものの、治らない。変わらず鼻づまりが続き、熱が下がらない。これ以上どうしたら良いのか、と悶々とした気持ちになっていた。最終的には、耳鼻科に行って、副鼻腔炎と診断された。今は薬が効いて、体調が戻ってきたところである。
ただ、今日に至るまで、不治の病ではないかとネットで病気について調べたり、自分が元気になったと思い込んでみたりしたが、何をやっても気分は晴れなかった。体調がイマイチな時は、根拠のない自信を持つことも難しい。自分を騙すパワーが出ない。
健康第一というが、何かしら病気になることはある。その時に原因がわからないことほど怖いものはないと感じた。微熱であっても、不安が大きくなると精神的な面で勝手に重症だと思い込みかねない。
病の元は心から。