サナフミのラーニングジャーナル

実践からの学びをまとめています

【茶道】自分で手を動かして「なぜ」に気づく

お手前が違うとき、理由は教えてもらわない

今日も、茶道の稽古へ行く。久しぶりの稽古だと、いつも行なっているお手前でも、一つ二つと所作が抜けることがある。

そんなとき、自分で「違う」と気づくこともあれば、ときに師から「そこはもう少し左において」と言葉をいただく。その時に、理由は言わない。なぜそのようなお手前なのか、お道具を置く位置はそこなのか、説明されることはない。

それでも、お稽古をやっていく中で、「あ、だからこうなのか」と気づく瞬間がある。次の所作をするのに、邪魔にならないように寄せていたのか、などとわかる。その体感は不思議と記憶に残る。説明されていたら、きっと覚えていないだろう。

気づくとは、脳の感覚であると同時に、身体感覚でもあると思う。何かを見聞きする受動的なものより、話したり触ったりする能動的な行動の中の方が、気づくことは多いのではないか。これは感覚的な話だが、あながち間違っていない気がする。

何か一芸に秀でた人は、きっと能動的な気づきが重なり、その分野においての感覚が研ぎ澄まされている。だからこそ、何か違う分野のことやちょっとした事象で、受動的であっても「気づく」ことができるのだと思う。

ローマは一日にしてならず。研鑽を続けて、いつの日かそうなりたいものだ。