サナフミのラーニングジャーナル

実践からの学びをまとめています

【英語】聞くことから全ては始まる

音が聞えなければ、コミュニケーションが始まらない

本日、通訳のオンラインレッスンを受けた。これで2回目。少し慣れてきたと言いたいところだが、全くそんなことはない。前回同様、気持ちはオロオロ、発言はボロボロである。

日英通訳の際、聞いた日本語をどんな英語にすれば良いか悩む、単語が出てこない、と悩んでいたら、それは中級者。贅沢な悩みである。やってみればわかるが、まず日本語を正確に聞き取ることが難しい。少し早口な人で、長めの発言になると、単語を2、3個聞き逃してしまうこともある。

通訳における聞き取りは日常会話とは、違う。自分が何を話すかを考えるのではなく、聞いた内容を自分で発話する行為である。なので、発言者が何を言っているのか、どんな意味で話しているのかを100%とらえなければ、うまく通訳することができない。「0を1」にするのではなく「百を100」にするのだ。

よく聞き取ると言っても、レコーダーのように一字一句を記憶して、再生することは求められていない。それはAIに任せれば良い。人間が通訳する意義は、文脈や非言語表現から発言者の発言の意図、意味をとらえることにある。正確に内容を聞き取った上で、その意味を解釈するのである。文字にして書くのは簡単だが、実行するのは恐ろしく難しい。

何と言っても、通訳は数秒の時間のうちに、頭の中で処理を行ってアウトプットしなければならない。これは、同一言語(日本語から日本語)であっても、難しい。誰かのスピーチを区切って聞き、その都度、数秒で言った内容を解釈して言い直してみると良い。もしすぐできるのであれば、あなたは通訳者になるべきだ。

人の話をよく聞こう。意味が正しくできるくらいよく聞き取ろう。

【茶道】茶の湯の稽古から仕事を考える

稽古でのミスと、仕事のミスの違いは何か

仕事のミスで、落ち込み気味な気持ちを引き連れ、稽古に向かった。いつもと何の変わりもないが、その日常でありながら非日常な空間に身を置けるありがたさを感じる。

そして稽古を始め、いつも以上にお手前を間違える。しかしながら、仕事におけるミスと同じ「間違える」でありながら、茶の湯においては、何も気にならない。むしろ全体の流れの中で、ちょっとした間違いは気にならなかったりする。あたかも間違えた動作が最初から予定されていたものかのように手が動いている。これは不思議な感覚であった。

茶の湯における所作は、頭ではなく身体が覚えている。だからこそ、流れの中で身体が反応するため、ミスの原因を頭で考えるより、適切な動作を身体が行っているからだと思う。悩んでいる暇がないのだ。

これは物事の「部分」を切り取って考えるのではなく、全体の「流れ」で捉えていることが関係している。何か問題の原因を考えて改善をする場合、物事を分解し、原因となる課題を特定した上で、その改善を考える。仕事はまさにこの考えのもと、改善を繰り返し、生産性を上げていく。

一方、茶の湯においては、動作を分解して考えない。初心者のとき、割稽古という帛紗を捌いたり、茶杓を清めたりする基本動作を練習することはあるが、その後は基本的に通し稽古となる。一部だけを取り上げて練習することはほとんどない。初めてのお手前であっても、全部やる。

初めての場合、当然間違える。いや、間違えるどころか何をしたら良いかわからないので、言われた通りにやるしかない。言われた通りですら難しい。「右手で取って」と言われても、どのようにお道具を持てば良いのか、上から掴むか、横から掴むか、と戸惑う。それでも、薄茶・濃茶の基本の流れに沿って進むため、流れに沿って覚えた方が理解が早いとも感じる。

今自分はどこにいるのか、何のためにこの所作をしているのか、が感覚としてわかる。これが説明を聞くだけでは理解するまでに時間がかかる。習うより慣れろ、だ。

さて、ここであらためて仕事のことを考えてみる。ミスをした時、どうして間違えたのか、とその原因を捉え、改善を考えたくなるが、一度全体を見てみるのが良い。そもそも、その作業における全体の流れはどうなっているのか。自分の業務の全体、そして、自分の前後のプロセスに関わる人はどんなことをしているのか。そういった全体に視野を広げ、自分の作業を捉え直すときっと何かが見えてくる。

全体をとらえよう、そして、その全体が部分になるように、さらに視野を広げよう

【マインド】ミスを連発した仕事も、人生のほんの一部

ミスをした自分は、全てダメなわけではない。

先日から仕事上でのミスが続いている。新しいことにチャレンジをして、上手くいかないのではなく、これまでやってきたことで、確認すれば、見直しをすれば防げることができたヒューマンエラーである。

ミスが発見できなかったのは仕組みの問題だと考えれるが、それが続くと、やはり自己の問題と関連づけて考えるようになる。今日に限っては、請求書の記載と書類の記載を一致さればよいだけの修正において、数字を打ち間違えてしまった。もはや言い訳のしようがない。

自分の深層心理としては、こんなくだらないこと早く終わらせたい、と思ったいたのだろう。これら単純作業は、早くAIとかで自動でやってもらいたい、とも考えているかもしれない。とはいえ、自分が間違えたことに変わりはない。神は細部に宿る、と自覚を促すための試練のようにも思える。

ミスの修正作業に時間を取られ、本来やるべき業務を進められない。そうなると、ミスをしている自分を自覚する時間が長くなる。ミスした業務以外にもやっていることはたくさんあり、その側面では評価されていることもある。しかしながら、現状では対応に追われ、お詫びを繰り返す自分が自己認識の多くの割合を占めている。

こんな時こそ、茶道や音楽を嗜む意味がある気がする。

仕事における一部の業務が自分の全てではない。人生のほんの一部だ。誰も自分のことを責めていない。自分が自分に対して、過剰な反省を促しているだけである。他人のことを考えているほど、世の中暇な人はいない。

ミスをした分、他の誰かがミスをした時、心の底から共感をして、手助けをすることができる。人の痛みがわかる人間になるためのきっかけである。

【マインド】失敗から気持ちを切り替える

失敗をしたとき、ちょうど良い反省の度合いはどのくらいか。

今日、1ヶ月前に処理した件で、数件ミス発覚した。昨日のことならまだしも、1ヶ月も前のことなので、原因を明らかにするために時間を要した。また、終わったことに対して、修正が発生するので、全くもって生産性のない仕事となる。気持ちも落ち込む。

起きてしまったことは仕方ない。判明した原因の根本を考え、再発防止策を考える。これが、問題解決の基本である。対応としては、その通りだが、自分のメンタル面はどうだろうか。楽観的に「人間だもの、仕方ない」と切り替えるか、「どうしてそんなことをしたのだろうか」と自分の判断の深いところまで内省するか。私は後者の方だ。

慣れていない作業だった、と言い訳も考えたくなる。もっとこうすればよかったと思いつくこともたくさんある。どれも考えても仕方がないとわかっていても、心に浮かんでくる。誰も責めていないのに、迷惑かけてしまった、と自己肯定感を下げる方向に向かっていってしまう。

さらに、そういった自分を客観視すると、「何必要以上に落ち込んでいるんだよ」と、これまた自分に否定的な評価を下す。もうどうしたら良いのか、と思ってしまう。

こういったときは、他人の力を借りるしかないと思う。自分でいくら、気持ちを切り替えようと考えても、「切り替える」と言っている時点で、マイナスなことを考えないようにしようとしているだけで、実際は何も変わっていない。

つまり、まず最初に心に浮かぶのはマイナスな感情であり、その認知を頭を使って変換しようとしている状態である。感情の根っこにある心の部分は、変わっていない。こういったときにとにかく話を聞いてくれる存在がいると、健常な状態を保てる。

気持ちは切り替えるのではなく、切り替わるのだ。

【マインド】言い切る勇気

これは間違いない、絶対であると言い切れることはあるか。

多様性、個性を大切に、と言われるようになって久しいが、人それぞれ考えを尊重しようとする柔軟性は大切である。しかし、なんでもアリではない。自分の個性や考えを認めてもらうのは、同時に相手のことも受け入れることが条件となる。一方的に自分の言うことを聞いてもらおうとするのは甘えである。

とはいえ、相手の意見を受け入れすぎるのも良いとは言えない。あなたの考えは理解できる、しかし、私はこう思う、と受け入れつつ、意見交換をしていくことが健全なコミュニケーションの基本だと考える。

そんな中、相手が間違っているとき、例えば法を犯すようなこと行動をした時、「ダメだ」と止めることはできるだろうか。それもその人の考えである、と見過ごすことはないだろうかと考えることがある。この場合、法律という明確な基準があるため、判断は容易だが、相手を止める行動をするかどうかが焦点になる。当然、止めに入る、と言いたいところだが、実際は相手によるところが本音な気がする。

そして、何より難しいのか、法律の範囲だが、倫理的に許されない行為だ。何を正しいとするのか、その明確な共通の基準がない。日本の文化、慣習はある。その空気のようなものは、ルールではない。その環境において、「絶対にこうした方が良い」と言い切れることはあるだろうか。

自分の中で何が正しいのか、を問い続けつつ、大きな方向性として、こちらが正しいというものを定めていくのが人生。唯一の正解を見つけるのではなく、これは絶対ダメというゴルフのOBゾーンを明らかにしていくようなものとも言えるかもしれない。

【書籍】わかったことを自分のものにする

本を読み、内容を理解し、記憶し、実践。その先が大切。

このラーニングジャーナルは主に体験したこと、実践したことからの学びを言語化している。そのため、結果的に書籍の内容と同じようなものになることがある。しかし、一度自分の頭を通し、何も参照せず文章を作っているので、自分の中での内容の意味は異なっている。

読書をして理解した内容を言語化することで、記憶に残る。そして、残った記憶を元に目の前の状況で、その記憶を頼りに行動を変化させる(学んだことを実行する)さらに、その行動を振り返り、知識と実践において何が違ったのか、自分は、何を感じたのかを言葉にする。そうすることで、学びが自分のものとなる。

さらにその先がある。実践からの学びを言語化したものを、自分の力で体系化する段階である。これは難しい。材料があるからゼロからではないが、それこそ自分で本を書くような作業である。あれこれまとめようとしても、何か納得がいかなかったり、論理が弱いことに気づいたりする。

そうやってまとめる段階にきて、元々参照していた書籍に立ち戻ると、自分が読み落としていた箇所がたくさん見つかる。だから、自分の体系化はうまくできないのか、とまた一段上の気づきを得ることができる。一粒で二度おいしい体験。

本を読んでから、自分で体系化するまでは直線的に完了するわけではなく、上記のように、書籍に戻ったりしながら、サイクルを回していくように進んでいく。一回でうまく体系化できることはほとんどない。できたと思っても、それは思い込みであり、内容は不十分である。

効率を考えすぎず、必要な時間をかけることが、結果的に一番の近道となる。

【英語】単語より構造

単語の推測は容易だが、文構造の推測は難しい

今日から通訳のオンラインレッスンを始めた。説明はほどほどに、とりあえずやってみようと、日英と英日それぞれの通訳を行った。スピーチ映像を区切ってみて、そこまでの内容を通訳する流れであった。

英語から日本語はボロボロである。通訳するためのインプットが母国語の方が簡単であり、英語はそもそも通訳するための内容が完璧に聞き取れない。英語教材ならまだしも、リアルネイティブのスピーチは、スピードが早く、省略や強弱が激しく、なんとも聞きづらい。引き続き、英日通訳は、聞き取りの鍛錬していくしかない。

そして、日本語から英語の通訳はなんとか形になったが、意外にも日本語でも一発で正確に聞き取ることは難しい。「皆保険」を「介護保険」と聞き間違えたり、「とはいうものの」と言った部分が抜けて意味が変わってしまったりした。

単語はまだしも、文構造を決める言葉を聞き逃すと、文章を構成することができず、どこまでが意味の塊であるかわからなくなる。話の流れを推測することは必要だが、聞き取れなかった内容を推測で補うと、内容の意味が変わってしまいかねない。それは避けなければならないことである。

普段はあまり意識しないが、日本語は文末まで聞き取らないと、意味が確定しない。「私は〜〜で、〜〜ではない」と最後に否定がくると、そこまで話していた内容が正反対の意味になる。「〜というのは、嘘です」とみたいに責任回避構文ができるのだ。

意外性を出す場合は、話の流れを急に変えることがあるかもしれないが、基本は、相手にわかりやすいような流れにするのが親切である。これは通訳に限らず、日本語における日常会話で意識したいところだ。

こんなにも文構造を意識するようになったのは英語のおかげである。外国語を学ぶ意義の一つは、母国語から離れてみることで、自国の言語の特徴がわかるところである。新しい認知の枠組みを自分にインストールしているようなものだ。

translationはAIの得意分野であるが、interpretは人間の得意分野である。