サナフミのラーニングジャーナル

実践からの学びをまとめています

【音楽】至らなさを知る

「違うのは、上手に演奏できていないから」

本日、初めて師より篠笛の稽古を受ける。かねてより誰からにきちんと指導をしてもらいたいと考えていたが、ついにその日が来た。ネットでいろんな奏者の音を聴いて、この人に教えてもらいたいと思えた人である。

挨拶もそこそこに、さっそく自分の吹いた音を聞いてもらう。2、3回ロングトーンを聞いただけで、気になるところがたくさん見つかったのだろう。しばらく吹くことはなかった。伝えたいことが溢れ、ずっと話し続ける師。かなりの情報量である。

そして、たくさんの説明が終わったのち、もう一度音を出してみる。ちょっと違う。と師はおもむろに自身の笛を出し、演奏する。たしかに違う。明らかに違う。

同じ篠笛を吹いているのに、音が違うのだ。使っている笛のランクが違うのではないか、と思ったりしたが、そうではない。師は「あなたが上手に吹けていないから違うのだ」とはっきり仰った。

ここまではっきり言ってもらうと逆にスッキリする。違いに関して、あれこれ言い訳が浮かんでいた自分の心をシャットアウトしてくれた。それなりに篠笛を吹いてきた身からすると、自分が下手なことを受け入れるのに、時間がかかったのだろう。これは無意識であった。想像以上に自分に対する評価が高い自分がいると認知した瞬間である。

その言葉を受け入れた上で、どうすれば近い音が出せるのだろうか、と素直に耳を傾け、歌口の場所を言われた通りかえ、吹き方を変えてみると、これが不思議。師の音に近づいたと実感できる音が出せたのだ。明らかに変わったと思えた。

思い返してみれば、しばらく自分の音が変わったと思える経験をしていなかった。自分一人で練習した延長上に、今日のような変化は起こらなかっただろうと思う。やはり自分の殻を破るためには、違った環境に飛び込み、新しい出会いがあるところに向かうことが大切である。

至らなさを知った今日から、白紙に戻り、一から始めていきたい。

【音楽】間を合わせる

練習と本番の違いは何か。

今日も篠笛を演奏したが、普段練習している成果が発揮できたとは言えない。腹式呼吸で、喉を開いて太い音出す、そういった意識で練習しているが、本番では再現することが難しい。やり直しができない一発勝負で力を発揮するためには鍛錬が足りていないようだ。

その原因を考えてみるに、「間を合わせる」難しさがあると思った。一人で練習するときは吹き始めは自分のタイミングで決まる。しっかりと姿勢を整えて、十分に息を吸って演奏することができる。一方、本番では、他の楽器の音に合わせて演奏しなければならない。そうすると、自分が準備が万全でないタイミングで演奏が始まることもある。自分の間で演奏できないのだ。

些細なことのように感じるが、篠笛において、歌口(息をいれる口の場所)が適切な場所に来ないと良い音は出ない。ミリ単位でずれてもダメだと思う。そういった場所に、パっと合わせられるまでに至っていない自分は、調整に時間がかかる。なので、ココだと確信が持てないうちに演奏が始まってしまうことがある。これは回数をこなし、感覚を掴んでいくしかないだろう。

プロはいつ、どこでも、一定に力を発揮できる人であると思う。自分は篠笛のプロではないが、納得のいく音を安定して出せるようになりたい。相手に合わせることができる状態とは、自分のことを無意識にできる状態であると思う。どういった姿勢、感覚で演奏すれば良いのかを無意識レベルで再現できれば、どんな間であっても合わせることができる。

あるべき状態を無意識で再現できるように鍛錬するしかない。道のりは長い。

【茶道】中心を捉える

身体とお道具における中心を意識すると力まない

本日のお稽古にて、茶碗にて抹茶を茶筅(ちゃせん)でシャカシャカ振っていたとき(一般的に最も茶道を代表する行為)、違和感を覚えた。どこか腕に力みを感じる。茶筅を動かしている際、無理をしてその姿勢をキープしているような感覚であった。

なぜなのかと自分の姿を客観的に捉えると、茶碗が自分の身体の中心から少し右側にあった。そのため、上半身をほんの少し右に捻り、左腕を必要以上に伸ばす必要があった。その結果、身体に力みが発生していたのだ。ズレはたかだか10センチくらいだったと思うが、それだけで感覚が変わってくるから不思議だ。日常においてこのような感覚は持ちづらい。

来客の際、お茶をどうぞ、と差し出すとき、どこの位置に置くか意識したことはあるだろうか。コロナの影響で来客やお茶を出す、という行為自体がなくなってしまった今、そんな繊細さを感じなくなってしまったように思える。

人の身体感覚にて、中心は想像以上に大切なものである。「立つ」時にも、重心を中心において、内腿に力を入れて立つと疲れにくく、見た目も美しい。「歩く」際には、自分の身体の中心から前方に一直線の線をイメージして歩くと、上半身がぶれないため余計な動きが生まれず、疲れにくい。これらは、鎌倉時代から続く、小笠原礼法のお稽古をしていた時に教わったことである。

さらに言えば、食事の作法においても、自分の中心を境に、左に配膳されたお皿は左手、右にあるものは右手で取るのが原則である。箸を右手で持っていたとしても、握り込んで右手で器を持つ。和食の時、汁物は右にあり、その器を左手で取ると体を大きく捻ることになり、不自然な動作となる。また、箸は持ちっぱなしではなく、箸置きに置き、汁物をいただいたり、おかずを味わったりすると、よく噛み、食事を味わうことができる。

身体において中心は大切である。中心がズレると余計な力が必要になる。
身も心も真っ直ぐな人間でありたい。

【英語】繰り返す意味を感じる

反復が大切と聞いても、その意味がわかっていなかった。

予習、復習とは、幼少期から聞き続けてきた言葉であり、それなりに自分も実行してきたつもりである。しかしながら、復習と反復は似ているが、意味が違う。

自分の考えでは
・復習:新しく学んだことを自分の言葉で説明できるように整理し、理解すること
・反復:理解したことを、無意識に近いレベルでできるよう繰り返すこと

復習は「わかる」ための行動であり、反復は「できる」ようになるための行動である。

この反復の意味が、自分にはわからなかった。特に学生時代は、わかっていることを何度も繰り返すのを面倒と感じ、蔑ろにしていた。結果として、テストで基本問題はできるが、応用問題は解答できないことがしばしばあった。まさに「できない」のだ。

数学の公式の意味がわかっても、その公式を使って問題を解くことができなかった。ちょっと形が変わったら違うものに見えてしまう。これは理解したことが文字通り、身についていないから。数学に限らず、何かを身につけるためには自分の想像している以上に反復が必要だと、この歳になって腑に落ちている。

本気で英語を学習しようと心に決めて始めた今、一つの文章を20回繰り返して音読することもある。単語の意味はもちろん、発音、音のつながり、イントネーション、リズムもできるだけお手本の音声に近くになるように意識している。話をしている場面がイメージでき、自分が実際に会話しているような感覚になること目指している。

効率化が叫ばれる昨今であっても、非効率に見える王道こそが一番の近道である。

【マインド】失敗することは、人を許す心作り

自分が完璧な人間ほど、他人を許容できる範囲が狭くなる

きょう、約束をすっぽかしてしまった。正確には約束の時間が過ぎてから事に気づき、連絡をしたのだが、それにしても約束を果たせなかったことに変わりはない。

そんなこと今までになかったのに、と思う一方、そんなこともあるよね、と考えている自分がいる。ここのところ失敗続きで多少、心の変化があらわれているのかもしれない。若かり20代の頃は失敗する自分も許せなかったし、相手にも効率や正しさを求めてきた。「使える人」「使えない人」などという単一の尺度に人を当てはめていたようなところがあった。

しかしながら、自分一人ではどうにもならない領域が増えてくるにつれ、自分の至らなさ、できない場面に向きあわざるを得ないことが多くなる。そうなってくると今までできていた当たり前のことができなかったりする。ついこの前もそうである。他人のことを考えていたら、自分のことを間違える、という状況だ。

そんなこんなを繰り返すと、そりゃ誰だって間違えるよね、と心の底から納得して、達観してくるような感覚になってくる。それは自分自身に対しても同じである。精一杯やっていることを認め、結果的に失敗してもそれで良いと思える。これは強がりではなく、本当に受け入れられるようになる。

もちろん他人に対しても、「なぜこんな当たり前のことができないのか」と怒りを感じることが少なくなる。他人の当たり前を自分ができないこともあると、考えるから、相手に求め過ぎないようになる。もちろん、仕事であったら任せたことをしてもらわないと困るわけであるが、いつも100%の結果を返してくれると期待してはいけない。相手は自分と同じ人間であることを忘れてはならないのだ。

自分だって最初からできたわけではない。誰かのおかげでできるようになったのだ。
その恩を今目の前のできない人に返そう。それが真の恩返しとなる。

【論点思考】問いと回答を明確にする

聞かれたことにはっきり答え、わからないことをはっきりと問う

本日、今まで訪れたことのない店舗に、コンタクトレンズを買いに行った。店舗に入ると感じの良い店員さんが「コンタクトレンズの購入ですか?」と尋ねてきた。しかしながら、相手はマスクをしており、少し距離があったため、籠った声を聞き取れなかった。

「もう一度よろしいでしょうか」と聞き返す自分。まるで英会話のモデルケースのようだが、日本語だって聞き取れないこともある。その時は、もう一度言って欲しいと聞き返すべきだ。わからないような顔をして、相手に察してもらうのは甘えである。

イスで待つように促されて、しばらくして、前回のものと同じでよいか、つけ心地は問題ないかと質問が続く。「はい」「問題ありません」と答えるワタクシ。一箱どのくらい入っているのか、と尋ね、「一箱35日分です」と答える店員さん。ポンポンと会話が進み、レジに呼ばれ多少の説明を聞き、店を出る。

何とも心地よいやり取りであった。お互いの問いに対して、それぞれが明確な回答をすると、流れるように会話が進む。当たり前のようなことだが、意外にこういった経験は多くない。予約、特に飲食店、は顕著である。いつ(日付・時間)、何人、メニュー、その他、と聞かれる項目が決まっているから、電話する方は整理しておくべきである。店舗の方も、予約がいっぱいだった時の代替案をどのように話すか、で流れが変わる。

相手の条件から、複数の選択肢を提示するなど、相手の意思決定をサポートする情報を提供できるのが好ましい。この辺りはマニュアルになっているのだろうが、実地では臨機応変さが求められる。話す相手の人柄、忙しい時間帯かどうかなどで流れが大きく変わる。

会話の基本は「問い」と「答え」である。自分の答えるべき「問い」は何か、相手から欲しい「答え」は何か、を自覚することから始めよう。

【英語】目にみえるの身近なものから英語に

英語で考えるとは、どういうことなのか。

このところ、少し英語が聞こえるようになってきたので、英語ネイティブが解説する英語学習の動画を見ている。当たり前だが、英語で話しているので、8割の理解と言ったところだ。

その中で、納得した内容が、英語で考えるためには、まず身近なものを英語で言えるようになるところから始めること。考えるとは非常に抽象的な話で、雲をつかむような内容になることが多い。主語を意識しようとか、学習面からのアドバイスも多い。

しかしながら、最近みた動画では、そもそも話すべき英語の単語を知っているか、と投げかけられた。思わず「知っている」と反応した瞬間、「では、部屋の中にあるもの(名詞)を英語で言いまくってみよう、どうぞ」と指示されて絶句をする。目に見えるものはたくさんあるのに、言えない。Book,Doorと出だしは良いものの、すぐに、窓ガラス?畳?排水溝?と出てこない状態になる。

英語の文章を読んで理解することはできても、身の回りのものを英語で言えない。なんとも本末転倒な状況であるが、これが現状である。これでは、文字とイメージがリンクしていないため、いつまで文字がないと英語が使えない状態は変わらない。

理解するとは、頭の中に映像がイメージできることなんだと、最近学び、納得してきている。ここで、身の回りのことを英語で言えるようになり、その納得を確信にしたい。

1日1つで良いから単語を覚えましょう、と笑顔でアドバイスする外国人YouTuberに背中を押され、コツコツ頑張ります。